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バンコクの一大風俗街パッポン通りを作ったのはパッポンさんと米軍

バンコクの一大風俗街パッポン通りを作ったのはパッポンさんと米軍

タイでゴーゴーバーの発祥の地はパッポン、カラオケはタニヤです。われわれ日本人観光客や駐在員にとっては「日本人街」であるタニヤがなじみ深いものですが、タニヤの歴史を知るためには、パッポンについてもおさえておくべきです。そもそもパッポンとはどういう意味なのか、パッポン通りになぜゴーゴーバーができたのか、歴史をみてみましょう。

タニヤ通りの西側100mのところに並行してある通りが、かの有名なパッポン通りです。主に欧米人観光客向けのゴーゴーバーやビリヤード、そして夜になると通りを埋め尽くすパッポンナイトバザールの屋台が有名です。

パッポン夜店
パッポン通りのナイトバザール。

第二次大戦後に中国の海南島から移り住んだウドム・パッポンという人が、まだ小さな運河と古い民家しかなかったこのエリアに数軒のバーを作り始めたのがパッポンの始まりだそうです。つまり、パッポンとは人の名前です。大阪の道頓堀(江戸時代初期に安井道頓が工事を手掛けたことを記念して命名)みたいなネーミングの由来なのですね。当時はタイ・バンコクの夜の盛り場は、ニューペッブリー通りがメインで、夜の娯楽はバーやマッサージパーラーが中心でした。

ベトナム戦争
ベトナム戦争の兵士は、休暇になるとパッポンのゴーゴーバーを訪問するように。

しかし、1964年のトンキン湾事件でベトナム戦争が激化、大量の米軍がベトナムに投入されるようになってから状況が変わります。戦場のアメリカ軍兵士たちは休暇になるとバンコクを訪れます。その受け皿としてパッポンは急速に発達していったのです。1967年には初めてゴーゴーバーができたそうです。厳しい戦況で泥沼化していたベトナム戦争で、精神的に追い詰められた米軍の若者たちは、次の休暇まで生き延びることができてバンコクを訪れると、ダンスミュージックの爆音が響く店内で、露出の激しいコスチュームのタイガールたちと酒、ドラッグに溺れながら、つかの間の「生きている」時間をむさぼっていたわけです。

この直球ぶりがアメリカっぽいですね。
この直球ぶりがアメリカっぽいですね。

つまり当初からファラン(アメリカ人)向けの街としてスタートしたのであり、大音量でクラブミュージックが流れる店内で水着姿の女の子が踊るスタイルや、今でもパッポン夜店にベトナム戦争の米兵がメッセージを刻んだZippoライター(さすがに本物ではなく模造品ですが)やミリタリーウオッチなど米軍放出品風の雑貨が売っているのはその名残です。

繁華街として賑やかになるにつれ、日本人商社マン向けのクラブもできます。その後、日本人向けクラブはタニヤに移って住み分けが始まり、(そのタニヤ側の歴史はこちらの記事参照。)そして90年代にはパッポンは最盛期を迎えたそうです。タイ中のきれいな娘が集まっている、という評判だったそうですが、観光客の間でもてはやされるにつれ高飛車になっていった女の子のサービスの質が落ちた、とも言われており、その後、ゴーゴーバーもナナプラザやソイカウボーイなどにお株を奪われたという見方もされています。

しかしタイ政府の規制強化などもありますが、一種の「特区」のようにゴーゴーバーの元祖の繁華街として今でも聖地のように君臨している街です。

パッポン通り夜店や観光おもしろスポット・便利な店一覧 はこちらをご覧ください。

 

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